第1話 第2話

アカリが電車を降り立ったのは、緩やかに潮の香りが漂う小さな駅だった。駅舎の壁には昭和のポスターが色あせたまま貼られていて、改札を抜けるとすぐに商店街へと続く細い道が伸びている。祖母の手紙に書かれていた住所を調べると、どうやら駅から歩いて十分ほどの場所らしい。ひっそりとしたホームを後にして商店街へ向かうと、観光客向けの飾り気は少なく、地元の人が昔から暮らしてきたのだろうとわかる風情ある店構えが並んでいた。トタン屋根の食堂、年季の入った八百屋、昭和の看板が残る理髪店。昭和レトロという言葉では片付けられない、長い時間がここに積もっているのを感じられる光景だった。

「ここが、ばあちゃんがかつて住んでいた町……」とアカリは心の中で呟く。手紙には正確な住所だけでなく、喫茶店と思しき名前がメモされていた。それを確かめるように通りを歩いていくうちに、小さな角を曲がった先に、どこか懐かしい木製の扉が目に入る。ガラス戸の脇に小さな看板がかかっていて、そこには「サクラ」と書かれている。祖母の手紙に記されていた店の名は、まさにこれだった。扉のガラス越しに見える店内は、薄暗い照明の中に淡いランプの光がともり、ゆったりとした時間が流れているようだ。

意を決して扉を開けると、コーヒーの香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。店内にはレコードの音楽が小さく流れていて、入り口そばにある棚には古い写真やグラスがきれいに並べられている。奥のカウンターの中から、柔らかな笑みを浮かべた店主らしき中年女性が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。「あ、こんにちは」と、アカリは少し緊張しながら挨拶を返す。店内はそれほど広くはないが、奥にはテーブル席が数卓あり、カウンターの脇には常連らしき年配の男性が一人座っていた。軽く会釈すると、その男性はちらりと視線を向けるだけで、再びカップに口をつけている。

アカリはカウンター越しに席につき、店主にコーヒーを注文する。メニューは壁に手書きで貼られていて、どこか懐かしい字体が目にとまる。店主がドリップの準備を始めたタイミングで、アカリは少し控えめに声をかけた。「あの、すみません。この喫茶店、昔からずっとここにあるんでしょうか。実は、祖母が若い頃にお世話になっていたと聞きまして……」すると店主は手を止め、柔和な表情のまま「ええ、もう何十年もやっていますよ。私の母の代からですから。おばあさまのお名前は……?」と尋ねてくる。

祖母の旧姓を口にすると、店主は少し首を傾げた。「うーん、お名前だけではちょっと……。でも、この店は地元の人が昔からよく利用していますから、きっとご縁があったのかもしれませんね。よかったら何か思い出せる人がいないか聞いてみましょうか。」そう言って、店主はカウンターの奥に座っている男性の方に目を向けた。年配の男性は、銀色の髪を短く刈り込み、背筋の伸びた姿勢でコーヒーカップを握っている。「カズマさん、もしかして何かご存じじゃありませんか? お嬢さんのおばあさまが昔、この辺りに住んでいたそうですよ。」

すると、その男性――カズマはゆっくりと顔を上げた。少し渋みのある声で「昔、この辺りに住んでいた人は大勢いるからなあ……」と口ごもりながらも、アカリの方に目線を向ける。「お名前は?」と短く問われたので、アカリは改めて祖母の名前と旧姓を告げる。するとカズマの目がかすかに見開かれ、まるで記憶を手繰り寄せるような表情に変わった。「その名前……。まさか、ほんとに……」と漏らしたきり、カズマは言葉を失ったように息を飲んでいる。

アカリは自分が何を言えばいいのか戸惑いながらも、祖母の手紙を思い出して切り出すことにした。「実は、祖母の遺品を整理していて、一通の手紙を見つけたんです。差出人が“カズマ”という方で……もしやと思って、ここに来たんです。」そう言ってカウンター越しにそっと視線を向けると、カズマの手が小刻みに震えているのがわかった。しばらく沈黙が続いたあと、彼は低く静かな声で言った。「まさか、届いてなかったのか……。あの手紙は、ずっと宛先を変えることもできず、出したままになっていたんだが……。」

彼の言葉を耳にした瞬間、アカリの胸は強く鳴った。やはりこの男性こそが祖母の手紙の差出人だったのだ。しかもまだ存命で、しかも同じ町に住んでいるとは想像もしなかった。アカリは驚きと同時に不思議な安堵感も覚えたが、次の瞬間にはある疑問が頭をもたげる。なぜ祖母は、あの手紙を誰にも見せず、タンスの奥にしまい込んでいたのだろうか。どうして二人は生涯を共にすることがなかったのだろうか。何より、祖母は晩年まで、このカズマという男性の存在を家族に明かさずにいた。それを考えると、祖母が生前ずっと心に秘めてきた何かがあるように思えた。

「祖母は……数週間前に亡くなったんです。高齢でしたし、大きな病気こそしなかったんですけど、眠るように……。」アカリがそう伝えると、カズマはしばし目を伏せた。「そうか……。そうなんだな。」唇をきつく結んだまま、言葉にならない思いをこらえているように見える。やがて、彼は静かに息を吐いて、アカリに向き直った。「悪いが、今は何も言えそうにない。もう少し時間をくれないか。こんなふうに、孫さんが訪ねてくるとは思わなかったんだ。」

その言葉を受け止めながら、アカリの心は複雑に揺れた。祖母がどんな人生を歩んだのか、その輪郭が一瞬だけ見えかけたのに、急に霧の中へと消えていくようなもどかしさを覚える。それでも、手紙の差出人が目の前にいるという現実は、アカリにとって大きな発見だった。彼が祖母にとってどういう存在だったのかを確かめたい気持ちと同時に、初めて会ったばかりなのに、彼のどこか寂しげな姿に心を惹かれてしまう自分がいることに気づいて戸惑う。

「はい、もちろんです。でも、もしよかったらまたお話を聞かせてください。祖母のことを知りたいんです。」そう伝えると、カズマは無言のまま、小さくうなずいた。店主の女性が気を利かせたのか、アカリのコーヒーカップにおかわりを注いでくれながら、「今日はゆっくりしていってね」と優しく声をかける。アカリはお礼を言ってから、カズマの姿をちらりと見やった。彼は再びコーヒーカップを手に取り、じっと液面を見つめている。そこに浮かんでいるのは、若き日の祖母の姿か、それとも今ここにいるアカリとの出会いへの戸惑いなのか――その表情からは読み取れない。

店を出ようと立ち上がるとき、アカリの足はほんの少しだけ震えていた。人の過去を知るというのは、これほどまでに心をかき乱すものなのかと初めて思い知る。外に出ると、潮の香りがまたふわりと鼻をかすめた。この町には祖母の青春の思い出が確かに息づいているのだろう。それは同時に、祖母とカズマの思い出でもあるのかもしれない。アカリは何もかもが新鮮に感じられる一方で、自分が見てはいけないものに手を伸ばそうとしているような、少し後ろめたい気持ちも覚えた。しかし、すでに後戻りはできないとも思う。祖母が何を思い、何を選択してきたかを知ることは、家族として大切なことのように思えてならなかったからだ。

喫茶店の前で一度振り返ると、店の中ではカズマがこちらに視線を向けている気がした。曇ったガラス越しでよく見えないが、あの優しさと孤独が混じり合ったような雰囲気は、アカリの記憶に深く残りそうだ。祖母が惹かれたのは、あの優しい表情だったのだろうか。それとも、時代にしばられながらもひたむきに何かを守ろうとする意志だったのだろうか。わからないことだらけなのに、アカリの胸は高鳴るばかりだ。

こうして港町で出会ったカズマという人物は、アカリにとって祖母の秘密を知るための重要な手がかりとなるだろう。しかし、同時にカズマ自身が抱える過去の重さや、今なお消えない祖母への想いが、アカリの心に予想外の変化をもたらし始めている。まだ名前を交わしてからほんのわずかな時間しか経っていないのに、不思議と彼が気になって仕方がない。祖母が大切にしていた人だからというだけではない、言葉にしがたい感情が胸の中で芽生えているのを、アカリははっきりと自覚していた。

駅へと続く道を歩きながら、アカリは再び海の香りに包まれる。この町で感じる懐かしさは、自分の知らない祖母の青春時代を想起させるものなのだろう。手紙から始まった小さな旅立ちは、これから一体どんな物語を織りなしていくのか。アカリは心の奥底に生まれたざわめきを抑えきれないまま、駅へ向かう足を速めた。

第1話 第2話

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