商店街の朝は、だいたい誰かの声で始まる。
「澪ちゃん、悪いけど、これ運んでくれる?」
豆腐屋の奥さんに呼び止められ、澪は両手に牛乳箱を抱えた。
「うん、いいよ」
「澪ちゃん、ついでにこのチラシ、薬局まで持ってって」
「うん、いいよ」
「澪ちゃん、うちの猫が昨日から――」
「うん、聞くよ」
そうしているうちに、澪の朝ごはんは昼ごはんになり、昼ごはんは商店街の誰かが差し出すコロッケ一個になった。
二十歳の澪は、頼まれると断れない。人の困った顔を見ると、胸の中に小さな警報が鳴るのだ。
その日、警報を鳴らしたのは、商店街の端にある古本屋「紙魚堂(しみどう)」だった。
店の看板は色あせ、窓には「閉店セール」の紙が貼られている。店主の白井さんは、店先で段ボール箱に本を詰めていた。
「今月いっぱいで終わりだよ。もう、客も来ないしね」
白井さんは笑ったが、笑顔の奥に、長いあいだ本を守ってきた人の寂しさが見えた。
澪の胸の警報が、今度は消防車くらい大きな音で鳴った。
「じゃあ、何かやりましょう」
「何を?」
「ええと……大人向け読み聞かせ大会!」
口にした本人が、いちばん驚いた。
商店街の人々は、案の定、乗り気になった。
「大人向けなら、泣ける話かい?」と花屋の店主。
「いや、笑える話がいい」と魚屋。
「野菜が安くなる話なら、うちは協賛するよ」と八百屋。
「読み聞かせって、寝てもいいの?」と白井さん。
澪は、誰も止めなかったことを少し後悔したが、もう遅かった。
練習初日、白井さんは『星の王子さま』を手に取った。
「それでは、読みます」
白井さんは一行目を読み終える前に、目を閉じた。
「白井さん、起きてください」
「聞いてるよ」
「いびきが聞こえます」
「物語に入り込んだんだ」
練習二日目、八百屋の佐藤さんが『桃太郎』に挑戦した。
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。桃は本日、二個で三百円。大きい桃は四百円」
「物語に値札をつけないでください」
「でも、桃の話だろう?」
「そうですけど」
「なら、宣伝の機会だ」
練習三日目、魚屋の源さんは、登場人物の声をすべて「鮮度のいい声」にすると宣言した。
「おばあさんも、鬼も、犬も、みんな張りのある声でいくぞ!」
「わんわん!」
「鮮度がいい!」
「うおー!」
「それは魚の叫びです!」
澪は台本を抱え、額を押さえた。
それでも、みんなは楽しそうだった。白井さんは寝ていたし、佐藤さんは桃の値段を叫び、源さんは犬にまで魚の鮮度を求めた。練習は、毎回ちっとも進まなかった。
澪は何度も思った。
私がしっかりしなきゃ。
台本を整え、時間を測り、会場の椅子を並べ、ポスターを貼り、出演者に連絡した。頼まれていないことまで見つけては引き受けた。
ある晩、商店街の事務所で一人、赤ペンを握ったまま、澪はうつむいた。
「私がやるって言ったんだから」
そうつぶやいたとき、隣に佐藤さんが座った。
「澪ちゃん、台本の直し、半分やるよ」
「でも、佐藤さんは野菜の仕入れが……」
「野菜は逃げない。たまに値上がりはするけど」
源さんも顔を出した。
「会場の音響は俺が見る。声の鮮度なら任せろ」
「鮮度は音響の項目じゃないです」
「細かいことは、鮮度が落ちるぞ」
白井さんは、眠そうな顔で湯のみを差し出した。
「澪さん。頼むのも、仕事のうちだよ」
澪は湯のみを受け取り、初めて「じゃあ、お願いします」と言った。
その言葉は、思ったより簡単に口から出た。
本番の日、紙魚堂の前には人だかりができた。商店街の人だけでなく、近くの町からも客が来ている。古本屋の店内は、椅子を並べるといっぱいになった。
澪は舞台袖で出演者を見回した。
「台本、持ちました?」
全員が一斉に、空っぽの手を見た。
「……忘れた」
白井さんが言った。
「えっ」
「私も」
「俺もだ」
「わしは持ってきたぞ」
佐藤さんが胸を張った。取り出した紙には、今日の野菜の仕入れ表が書かれていた。
開演のベルが鳴った。
澪は舞台の真ん中に立ち、客席を見た。大勢の顔がこちらを向いている。何か言わなくては。台本はない。出演者はばらばら。胸の警報が、また鳴り始めた。
けれど、澪は一度、息を吸った。
「皆さん、今日は台本を忘れました」
客席がざわつく。
「その代わり、ここにいる人たちの記憶と、野菜と、魚の鮮度でお届けします」
笑いが起きた。
「それでは、『桃太郎、商店街をゆく』です」
澪が合図すると、佐藤さんが一歩前に出た。
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが――本日、きゅうり三本百円!」
「鬼ヶ島へ行くぞ!」と源さんが張りのある声で叫ぶ。
「その前に、桃を選んでください!」
白井さんが本を開くふりをして、目を閉じた。
「おじいさん、寝ないで!」と澪。
「いや、これは長旅の前の仮眠だ」
客席から、また笑いがあふれた。
いつのまにか客の一人が犬役を引き受け、前列の子どもが「きびだんごは何味ですか」と尋ねた。澪が「今日は商店街特製、焼き芋味です」と答えると、八百屋が「それはうちの芋だ」と立ち上がった。
物語は、鬼を退治したのか、鬼に野菜を売ったのか、最後まで誰にも分からなかった。
だが、終演後の拍手は、古本屋の天井が揺れるほど大きかった。
その日、紙魚堂には久しぶりに客が戻った。誰かが絵本を買い、誰かが昔読んだ小説を探し、誰かは「次の読み聞かせはいつですか」と尋ねた。
店の前で、白井さんは澪に小さな鍵を差し出した。
「これを受け取ってくれ」
「えっ。お店を継ぐんですか?」
「いや、そういうつもりじゃない。今日は君がこの店を救ってくれた。鍵くらい、渡させてくれ」
澪は鍵を受け取り、胸の中に、あの警報とは違う音がするのを感じた。少しだけ、うれしい音だった。
打ち上げの席では、みんなが成功を祝った。佐藤さんは売れた野菜の本数を数え、源さんは「魚の声が一番よかった」と主張し、白井さんは祝いの席でもうとうとしていた。
その翌朝、澪は鍵を持って商店街へ出た。
紙魚堂の隣には、長く空き店舗になっていた小さな建物がある。澪は鍵を差し込み、回した。
扉が開くと、そこには机と椅子、温かい照明、そして大きな看板が用意されていた。
『断ってもいい相談室』
澪は目を丸くした。
「これ……誰が?」
店の奥から、商店街の人々が次々と顔を出した。
「澪ちゃんが、いつも人の相談に乗ってるからね」
「ここなら、相談を聞くのも、聞かないのも、澪ちゃんが決めていい」
澪は看板を見上げ、思わず笑った。
「ありがとう。じゃあ、今日は開けてみます」
扉の鈴が鳴った。
最初の相談者は、白井さんだった。
「相談があるんだ」
「どうしました?」
白井さんは、真剣な顔で椅子に座った。
「店を閉めるかどうか、迷っていてね。できれば誰かに、もう少し続けろと言ってほしい」
澪はうなずき、それから、看板をちらりと見た。
「白井さん。今日は、その相談、断ってもいいですか?」
白井さんは目を見開いた。
澪はすぐに付け足した。
「でも、お茶なら一緒に飲みます」
白井さんは、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、お茶を頼むよ。砂糖は二つ」
「三つにしましょう。眠気覚ましに」
「それは困る。読み聞かせの練習で眠れなくなる」
二人の笑い声が、朝の商店街にこぼれた。
澪は、誰かのために何かをすることをやめたわけではない。ただ、自分の手を空けておくことも、誰かに任せることも、同じくらい大切だと知ったのだった。
相談室の看板の下で、白井さんはさっそくうとうとし始めた。
澪は湯のみを置き、そっと声をかける。
「白井さん。相談中ですよ」
「聞いてるよ」
「いびきが聞こえます」
「これは、相談に入り込んでいるんだ」












