佐伯澪が古い電話交換局の鍵を受け取ったのは、六月の、雨が山から降りてくる午後だった。
町役場の倉庫に眠っていた図面には、建物の壁厚が記されていた。外壁から内壁まで、どこも同じ。なのに、取り壊し業者が作業を始めると、北側の壁だけ妙に硬いと報告してきた。
「中に何かあるんじゃないか」
係長は冗談めかして言い、資料整理を澪に押しつけた。
交換局は、山間の町の中心から少し外れた場所に建っていた。戦前の建物で、白い塗装はところどころ剥げ、窓は板で塞がれている。澪は子どものころ、そこを通るたびに、壁の向こうから誰かが話しているような気がした。
六歳のとき、母が山で遭難した。
捜索は一週間続き、手袋だけが谷で見つかった。遺体はとうとう見つからなかった。父はその後、澪に母の話をしなくなった。澪も、あの山のことを思い出さないようにしてきた。
交換局の中は、古い金属と湿った紙の匂いがした。交換台は布をかぶせられたまま、窓際に並んでいる。壁には、電話線が幾重にも這っていた。澪が書類を整理していると、業者の一人が北壁を叩いた。
コン、コン。
返事のように、壁の向こうで同じ音がした。
澪は手を止めた。
「配管かな」
業者はそう言って、工具を取りに出ていった。
その夜、澪は残された書類の中から、小さな金属箱を見つけた。壁際の床板の下に押し込まれていたものだ。蓋には錆びた留め金があり、開けると、黒い録音テープが何十本も詰まっていた。ラベルには年月日と、町民の名前が書かれている。
交換局で録音をする理由はない。澪は迷った末、一番古いテープを再生機にかけた。
ざらついた雑音のあと、男の声がした。
『もしもし。わたしです。今、橋のたもとにいる。水が、こっちを見てる』
声の主は、戸籍資料で見たことがあった。四十年以上前に行方不明になった大工だった。テープの日付は、その三日前。彼はその後、山道を歩いているところを最後に、姿を消していた。
澪は別のテープをかけた。
『お父さん、戸を開けて。外にいるのは、わたしじゃないよ』
少女の声だった。名前は、当時八歳の町民。記録には、川で行方不明とある。
テープの声は、どれも電話をかけた覚えのない人々のものだった。誰かに助けを求める声。誰もいない場所へ話しかける声。最後には、必ず同じ音が入っていた。
受話器を置く、乾いた音。
録音された数日後、彼らは町から消えていた。
最後の一本には、ラベルがなかった。テープを回すと、澪はすぐにそれが自分の声だと分かった。幼いころの、息を弾ませた声。
『お母さんが、壁の向こうで呼んでる』
澪は再生機の停止ボタンを押した。指が震えて、二度、三度と空振りした。
その声を録音した覚えはない。
幼い自分が何を見たのか、何を聞いたのか。母が遭難する前の記憶は、霧の中に閉じ込められている。だが、テープの声のあとに、小さな澪が泣く音がした。
『お母さん、そこなの?』
それから、別の声が答えた。
『そうよ』
母の声だった。
澪はテープを止め、金属箱を抱えて局を飛び出した。役場へ知らせるべきだと考えた。けれど、建物の外に出ると、山の上から霧が落ちてきていた。交換局の窓は板で塞がれているのに、その隙間から、黄色い光が一本だけ漏れていた。
取り壊しを止めなければ。
そう思ったとき、遠くで電話が鳴った。
町のどこかの家から聞こえるはずのない音だった。交換局の中から、もう一度鳴った。
澪は戻った。
戸を開けると、誰もいない交換台の電話が、ひとつ、またひとつと鳴り始めた。ベルの音が部屋を満たし、壁の電話線が、黒い虫のように震える。
澪は近くの受話器を取った。
「もしもし」
息をするような雑音があった。
『澪』
母の声だった。
「お母さん?」
『ここを開けて』
澪は壁を見た。北側の壁。工事の跡が、薄い亀裂になって走っている。
『もう、あなたの声しか残っていないの』
その言葉の意味を尋ねる前に、電話の向こうで、何十人もの声が一斉に囁いた。名前を呼ぶ声。泣く声。笑う声。澪は受話器を落とした。
外では、工事用の重機が待機している。作業員に知らせようと戸口へ向かったが、交換局の扉は開かなかった。いつの間にか、外側から鍵をかけられたようだった。
澪は工具箱からバールを取り出した。
壁を壊すのは、母を取り戻すためではない。そう自分に言い聞かせた。確かめなければ、何も終わらない。
一打目で、漆喰が剥がれた。
二打目で、ひびが広がった。
三打目を入れた瞬間、壁の向こうから風が吹いた。山の冷たい空気ではない。長い地下道の底から流れてくるような、埃と雨と、知らない家々の匂いがした。
壁の内側に、空間があった。
そこは交換局の裏ではなかった。町そのものを裏返したような場所だった。見覚えのある商店街が、暗闇の中へ続いている。看板は古い年号を掲げ、電柱は上下逆さまに地面から生えていた。窓の向こうには、こちらを向く人影がいくつもある。
電話線が、彼らの身体に巻きついていた。
遺体ではなかった。
消えた住民たちは、昔の姿のまま立っていた。大工の男は作業着姿で、少女は赤い傘を握っている。彼らはみな受話器を耳に当て、澪を見つめていた。
誰もが、何かを待っている顔をしていた。
その奥に、母がいた。
遭難した日のままの服を着て、頬に泥をつけている。母は澪を見て、微笑んだ。六歳のころと同じ笑顔だった。
「お母さん」
澪は壁の裂け目に手をかけた。
母は首を横に振った。
「澪、来て」
その声は、電話の受話器からも聞こえた。交換台のすべての電話が鳴り出す。ベルが重なり、金属のような音の波になって押し寄せた。
澪は、母へ手を伸ばした。
指先が、母の指に触れる。
その瞬間、母の口が動いた。
「あなたの番よ」
裂け目の向こうから、無数の手が伸びた。澪は逃げようとしたが、電話線が足首に絡みつく。線は細いのに、引く力は山そのもののようだった。
最後に聞こえたのは、母の声ではなかった。
幼い澪の声だった。
『お母さんが、壁の向こうで呼んでる』
翌朝、取り壊し業者が交換局へ入ると、建物の中は空だった。交換台も、録音テープも、工具も消えていた。北側の壁には穴ひとつなく、白い塗装だけが新しく塗り直されたように滑らかだった。
町役場は澪の行方を捜した。山道も川も、古い局の床下も調べたが、何も見つからなかった。
その日の昼、町内の電話が一斉に鳴った。
受話器を取った人々は、誰も名乗らなかった。ただ、女の声が聞こえたという。
『開けて』
それは佐伯澪の声だった。
その夜から、電話を切ったあとも、町の人々は壁の向こうで呼ぶ声を聞くようになった。












