川の音が、聞こえなくなった。
山あいの町、朝凪町を流れる川は、いつもなら石の間をさらさらと抜けて、田畑へ向かう水路に水を送りこんでいた。ところが六月の終わり、川底の石がむき出しになり、水路の底には細い筋しか残らなくなった。
畑の土はひび割れ、葉を丸めた野菜が風に揺れている。
小学六年生の透は、町の集会所に貼られた水路の地図を見つめていた。古い水路は、山の斜面に沿って町をめぐる。分かれ道の数も、石の仕切りの位置も、透はほとんど覚えていた。
「上流の水が少ないだけじゃない。途中で止まっている」
透がそう言うと、集会所にいた大人たちは顔を見合わせた。
「どこで?」
「まだ分からない。でも、流れ方を見れば探せる」
透は、ノートに水路の長さと傾きを書きこんだ。雨の量、川の水位、最後に水が届いた場所。数字を並べると、ひとつの場所が浮かび上がってきた。
町から遠く離れた、山の奥の古い水門だった。
水門へ行く道は、崩れかけている。大人たちが様子を見に行く相談をしている間にも、畑の水は減っていった。透は地図を折りたたみ、ひとりで出かけることにした。
けれど、山道の入口で待っていたのは、同級生の三人だった。快、澪、陸。透とは、あまり仲がよくない。
快は、透が授業で間違いを指摘するたびに「先生みたいだ」とからかっていた。澪は、何かを言いかけては黙ることが多く、陸は透と目を合わせようとしなかった。
「どうして来たの?」と透は聞いた。
「畑の水を見に行くんだよ」と快が答えた。「透ひとりで何でも決めるの、危ないだろ」
「危なくない。道は分かっている」
「道が分かるのと、山で何かあったときにどうするかは別だ」
透は言い返しかけたが、やめた。四人で進めば、道具も荷物も分けられる。地図の上でも、それは正しい。
山道は、思っていたより険しかった。落ち葉の下に石が隠れ、細い橋は片側が沈んでいる。透は距離を測り、分かれ道のたびに地図と照らし合わせた。
「あと二百メートルくらいで、水路が見えるはずだ」
透が言うと、快は「ほら、また数字」と小さく笑った。
その直後、足元の土が崩れた。
澪が短く声を上げ、斜面に手をついた。陸がすぐに腕をつかみ、快も荷物を放り出して二人を支えた。透は、地図を胸に抱えたまま立ち尽くした。
ひとりだったら、どうなっていたのだろう。
澪は手のひらについた泥を払った。指先が震えている。
「ごめん。わたし、高いところが苦手なの。前に、橋から落ちそうになったことがあって」
透は知らなかった。
「だったら、どうして来たの?」
「畑は、うちのおじいちゃんがずっと世話してるから。水が来なくなるのを、見ているだけなのは嫌だった」
快は、放り出した荷物を拾い上げた。
「おれも、川が止まったら困る。だけどさ、透が『こうすればいい』って言うと、何も聞かれてないみたいで腹が立つんだ」
「正しいことを言っているのに?」
「正しいかどうかだけじゃない。こわいとか、嫌だとか、そういうのもあるんだよ」
透は返事をしなかった。ノートに書いた数字は、どれも間違っていない。なのに、快の言葉は地図の余白に残った線のように、消せずにいた。
水路は、山の壁に沿って続いていた。ところどころに落ち葉がたまり、細い水がその間をぬっている。透は水の流れを調べ、石の並びと傾斜を確かめた。
「やっぱり水門だ。ここから先は、水がほとんど流れていない」
やがて四人は、苔に覆われた水門へたどり着いた。木と鉄でできた古い門の前に、枝や泥、折れた竹が押し寄せている。門を動かすハンドルも、半分ほど土に埋まっていた。
透は、ハンドルの形を確かめた。
「詰まったものをどけてから、右に回せば開くはずだ。力を合わせれば、動かせる」
「はず、ね」快が言った。「もし壊れたら?」
「その可能性は低い。仕組みから考えて――」
「透」
澪が、静かに呼んだ。
「わたしたちにも、できることを言って。数字じゃなくて」
透は口を閉じた。少し考えてから、ひとりずつの顔を見た。
「快は、枝を引っぱって。陸は、ハンドルの下の土を掘って。澪は、動いたときに水が急に出ないか、下流を見ていて。ぼくは門の仕組みを確認する」
三人はうなずいた。
枝は何度も引っかかり、土は固く、ハンドルはびくともしなかった。快が腕をこすって顔をしかめる。陸は息を切らしながら、掘った土を脇へ運んだ。澪は下流の石に立ち、流れの変化を見つめていた。
「いったん休もう」透は言った。
「まだいける」快が答える。
「休むのも必要だ。無理をすると、手をけがする」
「それは正しいな」快は、今度は笑わなかった。
少し休んでから、四人はもう一度ハンドルに手をかけた。透が合図を出し、みんなで押す。鉄が、ぎ、と音を立てた。
「動いた!」
陸が叫んだ。
ハンドルが少しずつ回る。詰まっていた枝が崩れ、泥が流れ落ちた。水門のすき間から、黒い水が勢いよく吹き出す。
「下流、離れて!」澪が叫んだ。
水は石を洗い、細い水路を満たしていった。四人はぬれた袖を気にすることもなく、その流れを見送った。
町に戻ると、畑へ向かう水路に水が戻り始めていた。土のひびに水がしみこみ、葉を丸めていた野菜が、少しずつ頭を上げる。
大人たちは、四人の話を聞き、何度も礼を言った。
透はうれしかった。それでも、胸の奥には、まだうまく名前のつけられない気持ちが残っていた。
翌朝、透はひとりで水路を見に行った。昨日の流れが、ほんとうに続いているか確かめたかったのだ。
水路の壁に、古い刻み目があるのを見つけた。苔を指で払うと、そこに文字が現れた。
『よく考えたな』
その字は、亡くなった祖父のものだった。
透は息を止めた。祖父は、水門の仕組みをよく知っていた。けれど、昨夜の水門に手を入れた跡はない。枝も泥も、ずっと詰まったままだった。
では、祖父はいつ、この言葉を刻んだのだろう。
透が水路を覚える前から? 仲間と一緒に水門を開ける日が来ると、思っていたのだろうか。
祖父が残したのは、水門を直す仕掛けではない。透がひとりで抱えていた答えを、誰かと分け合う日を待つ言葉だったのかもしれない。
でも、もし祖父が、透の成長まで予想していたのなら。自分で考え、自分で選んだと思っていたことも、誰かに導かれていたのだろうか。
透には分からなかった。答えを急いで出すこともできなかった。
そのとき、後ろから快の声がした。
「透、次の水路も見に行くんだろ?」
澪と陸も、道の入口で待っている。
透は、刻まれた言葉をもう一度見た。それから、ノートをしまった。
「うん。みんなで行こう」
四人は、まだ知らない水路へ歩き出した。透の胸には、答えのない問いが残ったままだった。
けれど今度は、その問いをひとりで抱えてはいなかった。












