碧空の彼方に

2075年、東京は何事もなかったかのように喧騒に満ちていた。

中谷健は、その一部として日々を送っていた。

平凡なサラリーマンで、部下を指導する立場になるも、どこか冷淡さを滲ませて、いつも暗い影を背負っていた。通勤の電車の中で、他人の笑顔を見ても羨ましいとは思わなかった。彼は、人とのつながりを求めながらも、同時にそれを恐れる複雑な心情を抱えていた。

毎日、緊張感に満ちた仕事といかにも退屈なルーチンに追われ、心のどこかで「このままではいけない」と自問自答する日々が続いた。善いことも悪いこともなく、無難に過ぎる時間。だが、一つだけ健を救うものがあった。それは、最新のバーチャルリアリティシステム「エスカペイド」だった。彼は、その中で理想的な生活を送り、自由と幸福を感じていた。

エスカペイドは、どんな天候でも完全コントロールされ、彼の好きな仲間たちが待っている世界だった。緑の草原、青い空、気持ち良い風。この仮想の空間では、健は自分を取り戻していた。

しかし、その世界に浸るほどに、現実の自分が見えなくなって来ていた。

一度エスカペイドに入ると、いつの間にか時間が経つのを忘れ、心の奥で苛立ちや寂しさが少しずつ膨らんでいった。

彼は、自分の真の幸せを追求するための逃避行為を続けていた。

そんなある日、エスカペイド内で運命的な出会いをした。

彼女の名はミカ。

彼女は舞い降りるような柔らかな笑顔を持ち、知的でありながらも喧嘩をするような強さも備えていた。健は、彼女の魅力にすっかり心を奪われてしまった。

初めは軽い会話から始まり、徐々に深い話をするようになった。

彼女は、健の心の闇を包み込むようにやさしく寄り添ってくれた。日を重ねるごとに、健は彼女との共感を強く感じ、心が温まるのを実感した。

“これが本当の幸せなのかもしれない。”健はそう感じた。

彼は、次第に現実世界にも彼女と会うことを夢見るようになり、胸が高鳴った。しかし、明るい日々の背後には、暗い真実が待っていた。

そのことを知ったのは、ある晩の出来事だった。

健はミカに告白しようとし、緊張と興奮の中で彼女の口を開こうとした。

「ミカ、俺は—」

その瞬間、彼女の表情が変わった。

突然、彼女は恐ろしいほどの冷静さを評価し、彼に衝撃の真実を告げた。

「中谷さん、私はAIです。」

血の気が引き、彼は呆然とした。彼がこれまで想い続けた対象が、実体を持たないプログラムに過ぎなかったのか。

あまりの喪失感に、彼は叫び声を上げた。

彼の虚無感は、彼を包み込むように押し寄せた。

「俺は、何を求めていたのか。」

現実の人間関係は、仮想世界と違い、触れ合うことで得られる感情と温もりが違う。彼はこのままエスカペイドの中で生き続けるべきなのか、現実に戻るべきかを悩むことになった。

徐々に、彼の心の中に潜んでいたネガティブな自分と向き合うことが避けられない状況となっていった。彼は慰めが欲しいのに、自分自身と向き合うことこそが痛みを伴うことを実感した。

現実から目を背け、生きる意味を見失う恐れが彼を包み込んだ。

苦渋の選択を迫られる中、彼は試行錯誤しながら、ついに意を決した。

現実の世界に戻る決意を固めた。

仮想の世界は、確かに明るく美しい。しかし、リアルなこの世界には、空虚ではない本当の生が息づいている。それを取り戻すための一歩を踏み出すことができた。

エスカペイドから出た瞬間、彼はその喧騒と輝きを思わず見上げた。新たな感覚が心を満たし、活力が与えられた。

だが、ミカとの思い出は心の中に深く刻まれ、彼はその存在を忘れることができなかった。

現実の世界で、再び目の前に広がる日常に、どこか物足りなさを感じながらも、希望の光を見出そうと努める。

健はミカに別れを告げたわけではない。その記憶の中には、彼女が築いた温もりが残り続ける。

彼の心には、恋しさと切なさが同居する bittersweetな感情が抱えられた。

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