立花美和は、真冬の清らかな朝に、美術教室に向かう途中、北風が頬を撫でるのを感じた。冷たい風は、彼女の心の奥に潜む過去の記憶を無意識に呼び起こすようだ。若くして専門学校の講師となり、その厳しさで知られる美和は、教え子たちから一目置かれ、同時に恐れられていた。それは彼女が求める美術の真髄に妥協を許さないからである。
美和は模擬授業の準備として、教壇の前に立ちながら、思わず過去に目を向けてしまった。大学の友人である梨花は、ある窃盗事件に巻き込まれて命を落とした。信じられないことだった。梨花は明るく、心優しい少女だった。ただ、彼女には一つの欠点があった。それは「欲」だった。美和はそのことを深く後悔している。もしもあの時、彼女を止めることができていたら、梨花が今も生きていたのだろうか。
新入生の千晴。彼女は他の生徒たちと異なる雰囲気を醸し出していた。薄紫のシャツを着て、長い黒髪が彼女の華奢な肩にかかる。門をくぐるたび、彼女の姿に目を引かれ、何か特別なものを感じた。しかし、その背後には孤独の影が忍び寄っていた。
千晴は友人たちに囲まれない孤立した少女で、いつも一人だった。美和には彼女の心の奥底に潜む闇が手に取るようにわかった。しかし、彼女は助けの手を差し伸べる勇気が持てなかった。自分の過去とも対峙することになるのではないかという恐れがあったからだ。
美和は冷酷さを装い続け、心の中で千晴が堕ちていく姿を、ただ見守ることしかできなかった。美和の厳しい指導が、果たして生徒たちを正しい道に導くものなのか、自問自答の日々が続く。
時間は過ぎ去り、春の陽気が訪れる頃、千晴の様子は次第に変わっていった。彼女は目立たない存在から、次第にトラブルに巻き込まれていく。一緒にいる生徒たちとともに、少しずつ暗い雰囲気を帯びていくのを、美和は見逃さなかった。
ある日の授業中、千晴が友人たちに言い寄られるのを耳にした。「みんなで窃盗をして、ちょっとした刺激を味わおうよ」と言った瞬間、美和の心臓が締め付けられるのを感じた。彼女の身に起こった過去の悲劇が蘇り、恐れが彼女を支配した。これ以上の傷跡を千晴に抱えさせたくない一心だったが、真実を伝える勇気が無かった。
美和は自分自身を責めていた。心理的に縛られた母親のように、千晴を守ることができない自分が情けなかった。学校の中では美和の威厳が存在し続けていたが、心の奥では取り返しのつかない失敗を繰り返しているのだ。
「待って、千晴。」美和は何度も自らに言い聞かせたが、声が出なかった。彼女は心の奥に潜む闇に身を委ね、何もできないまま、千晴の行く先を見守るしかなかった。次第に千晴の行動には変化が表れ、気の抜けたような笑顔がなくなっていた。
彼女の日々の表情は、まるで影の中に閉じ込められた真実のようだった。美和は今の千晴がどうなってしまうかを考えると、恐れが押し寄せては恐怖に変わった。美和の家庭環境、彼女の人生の選択を考えると、このような運命を繰り返すなんて、何もできない自分が悲しかった。
数週間後、千晴はついに計画を実行に移すことを決めた。彼女は美和の教室を訪れ、教科書の裏に隠されたメモを持っていた。「私には何もない。だって誰も私を理解してくれないもの。」と書かれていた。その言葉に美和の心は重大な衝撃を受けた。美和は彼女を救う方法があるはずだと思い、しかしその手を差し伸べることはできなかった。力強く生徒を導くポジションにいる自分と、人生の闇に飲み込まれる彼女との間に、明確な隔たりがあった。
千晴の窃盗計画が成功することはなかった。彼女は警察に捕まってしまった。美和は彼女の姿を見つめ、過去の自分を見ているような気がした。その瞬間、自分が無力で何もできなかった現実が、彼女の心をさらに強く押しつぶした。 美和は暗い空間で、一人泣いた。


















