鉢植えに水を

佐和子は、窓口の椅子に座る人の目を長く見られなかった。

 見ていると、次に何を言えばいいのか分からなくなる。だから書類に目を落とし、足りない欄や押印の位置を確かめる。説明は、決められた順番で話せばよかった。

「こちらの欄が未記入です。記入して、次回お持ちください」

 それが三十六歳の市役所職員、佐和子の仕事だった。生活困窮者の相談窓口に異動して一年。丁寧に、間違いなく、余計なことを言わずに。そうしていれば、誰かを傷つけずに済むと思っていた。

 初枝が初めて窓口を訪れたのは、六月の終わりだった。

 薄い灰色のカーディガンを着た小柄な老婦人で、膝の上に古びた布の鞄を置いていた。鞄の持ち手は片方だけ、黒い糸で縫い直されている。

「家賃が、二か月分遅れてしまってね」

 初枝はそう言い、手元の書類を差し出した。年金の額と家賃を確認し、佐和子は必要な制度の案内をした。収入を確かめる資料、本人確認書類、賃貸借契約書。説明するたび、初枝は小さくうなずいた。

「息子さんに相談することはできますか」

 佐和子が尋ねると、初枝は鞄の留め金を指先でいじった。

「遠くにいるからね。仕事も家庭もあるし。迷惑はかけたくないんです」

 その返事に、佐和子は用意していた言葉を続けた。困ったときは相談を。利用できる支援は一緒に考えます。どれも正しい言葉だった。初枝は、帰る前に「また来ます」と言った。

 それから初枝は、二週間に一度ほど窓口に来るようになった。書類を一枚ずつ揃えては、何かが足りずに持ち帰る。佐和子はそのたびに不足を指摘し、次に必要なものを伝えた。初枝は謝り、頭を下げた。

「すみませんね。何度も」

「いえ、必要な手続きですので」

 佐和子はいつも同じ調子で答えた。初枝が何を心配しているのか、どんな夜を過ごしているのか、尋ねる言葉は見つからなかった。

 七月の終わり、初枝はまた窓口に来た。手続きの途中で、後ろに待つ人の気配が気になったのか、何度も肩越しに振り返った。佐和子は書類の記載を確かめ、次回持参するものを説明した。

「分かりました。もう少し、がんばります」

 初枝は立ち上がり、布の鞄を抱えて出口へ向かった。そのとき、椅子の脇に小さな紙袋が落ちた。

「お忘れ物です」

 佐和子が拾うと、紙袋の口から薬のシートがのぞいていた。印字された文字は、飲む時間ごとに線を引いて分けられている。

「お薬、落とされました」

 初枝は振り返り、ほっとしたように笑った。

「血圧の薬です。朝と夜、間違えないようにね。夫がいたころは、こういうのをよく見てくれたんだけど」

 言ってから、初枝は少し黙った。佐和子は薬袋を渡した。すぐに「ご主人は」と続けて聞くことはできなかった。それでも、初枝が受け取った手をそのまま引っ込めなかったので、佐和子は小さく尋ねた。

「今は、お一人でお住まいなんですか」

「ええ。夫が亡くなってからずっと。ここは慣れた家だから、できれば離れたくないんです」

 初めて、書類以外の話が二人の間に残った。

 次の来庁日、佐和子は上司に相談し、初枝の希望を確かめたうえで自宅を訪ねることになった。訪問の日、佐和子は玄関の前で何度も名刺を持ち直した。

「市役所の佐和子です。先日はありがとうございました」

 声が小さくならないよう、意識して呼びかけた。

 部屋はよく片づいていた。食卓には二人分の箸置きが並び、片方には薄くほこりが積もっている。窓辺には、葉の先が茶色くなった鉢植えがあった。

 初枝は、夫の年金に関する古い通知を引き出しから出した。記載を一緒に確かめていくうち、初枝が受け取れる可能性のある給付について、誤解したまま諦めていたことが分かった。

「夫の分は、もう何もないと思っていました」

「確認してみましょう。対象になるか、担当に照会できます」

 佐和子はそう答えた。初枝の表情に、期待よりも先に不安が浮かぶのを見て、すぐに付け加えた。

「今日ここで、決めなくて大丈夫です。書類を一緒に確認して、それから考えましょう」

 初枝はしばらく通知を見つめ、それからうなずいた。

 手続きは簡単ではなかった。年金記録の照会には時間がかかり、追加の証明書も要った。佐和子は担当部署に電話をし、必要な書類を一つずつ初枝に伝えた。書類を集めるのが難しいときは、窓口で相談できることも説明した。

 給付が認められるまでの間、家賃の滞納については貸主と連絡を取り、支援の申請も進めた。何度か確認の電話を入れるたび、佐和子は呼び出し音の後に聞こえる初枝の声を待った。

「この前の書類、見つかりましたよ」

「よかったです。無理のない範囲で大丈夫です」

 会話は少しずつ、必要事項だけではなくなった。初枝は夫が植木を育てるのが好きだったことや、息子が子どものころに転んで泣いた場所を、短く話した。佐和子は相づちを打ちながら、聞き逃さないようにした。

 給付が決まり、家賃の問題はひとまず収まった。初枝の住まいは守られた。通知を受け取った日、彼女は窓口で何度も紙を読み返した。

「これで、すぐに出ていかなくていいんですね」

「はい。少なくとも、今月の滞納分は整理できます」

 初枝は安堵の息を吐いた。だが、手続きが終わっても、部屋にひとりでいる時間は変わらなかった。体調に不安があり、買い物や通院も難しくなっていた。息子には一度、電話をしたという。けれど、話は長く続かず、今も連絡は途絶えたままだった。

 佐和子は施設や地域の見守りサービスについて説明した。初枝は資料を持ち帰り、何度も考えた末、施設への転居を自分で選んだ。

「家を出るのは、負けたみたいで嫌だったんです」

 手続きの最終確認の日、初枝は言った。

「でも、誰かにそうしなさいと言われたからじゃない。ここで暮らしてみて、これからのことを考えたんです」

 佐和子は、うまく返事ができなかった。初枝は封筒から小さな鉢植えを取り出した。葉の先はまだ茶色いが、根元には新しい芽がひとつ出ている。

「これ、夫が買ってきたもの。水をやるのを忘れて、何度も枯れかけてね。あなた、もらってくれませんか」

「私に、ですか」

「ええ。聞いてくれたから、私は自分で決められた。あなたに救ってもらった、というより……決めるのを急かされなかったのが、よかったんです」

 別れの日、初枝は職員玄関の前で立ち止まった。車に乗る前に、佐和子の手を両手で包んだ。

「息子とは、たぶんこのままでしょうね」

「そうですか」

 佐和子は、励ましの言葉を探さなかった。初枝は少し笑い、うなずいた。

「それでも、私は行くことにしたんです」

 車が角を曲がるまで、佐和子は立っていた。初枝の住まいは失われなかったが、孤独が消えたわけではない。制度は暮らしを支えられても、家族の間に空いた時間まで埋めることはできなかった。

 救うとは、相手の人生を代わりに変えることではない。自分で決める力を、その人の手に返すことなのかもしれない。佐和子は初枝の言葉を何度も思い返した。

 その夜、帰宅した部屋には、いつもの静けさがあった。誰かに今日のことを話そうと思ったが、電話帳を開いても、かける相手は浮かばなかった。

 佐和子は鉢植えを窓辺に置き、じょうろで水をやった。土が水を吸う音は、ほんのわずかだった。

 新しい芽は、まだ細く頼りない。

 彼女はしばらく、そのそばに立っていた。水をやる手は止めずに、誰にも言えない自分の寂しさを、そこに置いたまま。

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