人と目を合わせるのが苦手だった。
視線がぶつかると、胸の奥にしまい込んだものまで見透かされる気がする。だから悠真は、買い物のときも店員の顔を見ない。返事は小さく、必要な言葉だけ。故郷の町で、そうして暮らしていた。
二十二歳。母が死んでから、誰ともまともに話していない。
母の死を、悠真は自分のせいだと思っていた。病気に気づけなかった。苦しそうな顔を見ていたのに、どうしたの、と尋ねられなかった。尋ねたら、母を困らせる気がした。そうしているうちに、母はある朝、冷たい布団の中で動かなくなっていた。
あのとき、もう一言だけでも話していれば。
考えるたび、悠真は自分の声をさらに小さくした。
その冬、雪の混じった雨が降った。
川沿いの道を歩いていた悠真は、土手の下に人影を見つけた。古びたコートを着た老人が、枯草の上に横たわっている。初めは、寝ているのかと思った。けれど胸が上下しているか、離れた場所からはわからなかった。
通り過ぎればいい。
そう思った。自分には、誰かを助ける力などない。救急車を呼べばいいのか、声をかければいいのか、それすら決められない。
老人の手が、雨に濡れた地面をかすかに掻いた。
悠真は足を止めた。
「……大丈夫ですか」
声は雨に消えそうだった。
返事はない。悠真は震える指で電話を取り出し、救急車を呼んだ。やってきた救急隊員に名前を尋ねられても、老人は答えられなかった。付き添いを頼まれた悠真は、断る言葉を見つけられず、そのまま病院まで同行した。
老人の名は、宗一といった。
大事には至らなかった。脱水と、低体温。医師はそう説明した。宗一は数日で退院したが、帰る家に身寄りがないと聞き、悠真はなぜか放っておけなかった。
「食べるもの、ありますか」
それが、彼にかけた二度目の言葉だった。
宗一の家は、町外れの古い平屋だった。畳の上には新聞が積まれ、台所には空の薬袋と洗っていない茶碗が残っていた。悠真は、冷蔵庫にあった卵と葱で雑炊を作った。
宗一はゆっくり匙を動かし、ふう、と息をついた。
「うまいな」
「……よかったです」
「人に作ってもらうのは、いつぶりだろう」
それから悠真は、週に何度か宗一の家へ通うようになった。食事を作り、薬を並べ、灯油を買ってくる。宗一は礼を言い、悠真は首を振る。会話は少しずつ増えたが、長くは続かなかった。
それでも、沈黙が苦しくない相手は初めてだった。
ある晩、宗一は湯呑みを両手で包みながら言った。
「昔の俺は、酒に溺れていた」
声には、言い訳をする余地がなかった。
「家族がいた。妻も、息子も。酒を飲んで帰っては怒鳴り、金を使い、あいつらの暮らしを壊した。気づいたときには、二人ともいなかった」
悠真は、返す言葉を探した。宗一の顔を見ることはできなかった。
「生きているだけで、誰かを傷つけることもある。俺はそれを、ずっと後になって知った」
湯呑みの中で、茶がわずかに揺れた。
「でも、傷つけたことを悔やんでも、時間は戻らない」
宗一はそう言って、窓の外を見た。
悠真は、膝の上で手を握りしめた。ここまで誰にも言えなかったことが、喉元まで上がってくる。
「僕も……母を、助けられませんでした」
言葉にした途端、息が詰まった。
「具合が悪いのに、聞けなかった。何かできたかもしれないのに、何もしなかった。僕が、黙っていたから」
「お母さんは、君に助けを求めたのか」
「……わかりません」
「そうか」
宗一は、否定も慰めも口にしなかった。ただ、悠真の返事をそのまま受け取った。
「わからないことを、君ひとりの罪にするな」
その言葉は、胸に刺さった。痛かった。けれど、刺さった場所から、少しだけ息が通った。
春の近いある日、宗一の具合が目に見えて悪くなった。階段を上るだけで呼吸が乱れ、食事もほとんど喉を通らない。悠真は病院へ行こうと言った。
「今日はやめておく」
「でも、顔色が……」
「わかっている」
「救急車を呼びます」
「悠真」
その声があまりに穏やかで、悠真は電話を持つ手を止めた。
「代わりに、これを受け取ってくれ」
宗一は、枕元の引き出しから封筒を取り出した。黄ばんだ紙に、子どもの文字で宛名が書かれている。封は何度も開け閉めされた跡があった。
「昔、俺が命を救った子から届いた手紙だ」
悠真は封筒を受け取った。中には、何枚もの便箋が入っていた。最初の一枚には、幼い字でこう書かれている。
『あの夜、橋の上で泣いていた僕を、抱きしめてくれてありがとう。おじさんがいてくれたから、帰ることができました。いつか大きくなったら、僕も誰かを助けられる人になりたいです』
悠真の指が止まった。
母を亡くした夜のことは、途切れた夢のようにしか覚えていない。橋の欄干。冷たい風。泣いている自分を包んだ、酒と煙草の匂いがするコート。顔は見えなかった。ただ、背中を何度も撫でる手の温度だけが残っていた。
「……この子が、僕なんですか」
「そうだ」
宗一は頷いた。
「君のお母さんが亡くなった夜、橋の上にいた。ひとりで泣いていた君を見つけた。俺は何を言えばいいのかわからなくて、ただ抱きしめた。君は、泣き疲れて眠ってしまった」
悠真は手紙を胸に押し当てた。
「この手紙を受け取ってから、俺は何度も読み返した。俺がしたことは、家族にしたことを償うには足りない。それでも、あの夜だけは、誰かの役に立てたのかもしれないと思えた」
宗一は目を閉じた。
「君が生きていてくれてよかった。あの手紙を書いてくれて、ありがとう」
救われたのは自分だと、悠真は思っていた。けれど、あの夜に宗一をつなぎとめたのも、自分の小さな手紙だったのかもしれない。二人は、知らないまま互いの人生を支えていた。
悠真は、初めて宗一の目を見た。
「宗一さん」
名前を呼ぶと、老人は目を開けた。
「僕は、あなたに会えてよかった」
宗一は笑ったように見えた。悠真はその手を握った。骨ばった指は冷たかったが、掌の奥には、かすかな温度が残っていた。
「ありがとう、悠真」
その夜、悠真は宗一の枕元で眠った。目を覚ましたとき、窓の外には薄い朝の光が差していた。宗一は静かに横たわり、握った手の中から力が抜けていた。
悠真は、しばらくその場を動けなかった。それから震える手で電話をかけ、救急車を呼んだ。
駆けつけた医師は宗一を確認し、短く告げた。
「亡くなっています。昨夜のうちに」
悠真は、握っていた手を見た。
そこには、もう温度はなかった。
病院の記録にも、宗一の死亡時刻は昨夜と記された。けれど悠真には、あの朝、確かに宗一の声を聞いた気がしていた。名を呼び、名を呼ばれ、手を握り返した夜。記録の上では、もういなかった人が、最後に自分を救ってくれた。
春になり、川沿いの桜が咲いた。
悠真は宗一の手紙を封筒に戻し、橋の欄干に立った。かつて泣いていた場所だった。今度は、目をそらさなかった。
通りかかった少年が、落とした手袋を探している。悠真は拾い上げ、近づいた。
「これ、落としましたよ」
少年が顔を上げる。悠真はその目を見て、手袋を差し出した。
「ありがとうございます」
小さな声が返ってくる。
悠真は、同じくらい小さな声で答えた。
「どういたしまして」
その言葉は、誰かのためだけではなかった。受け取ったものを、次へ渡すための言葉だった。












