北辺の町では、死者の名を銀板に刻み、鐘楼に吊るす。
冬至の夜、鐘が鳴れば、死者は一晩だけ家へ帰る。戸口をくぐる者もあれば、窓辺に立つだけの者もある。誰もが、帰ってきた死者に何を告げるべきかを知っているわけではない。それでも町の人々は、鐘の音を待ちわびる。
エレナは待たなかった。
夫のユリウスが死んでから、鐘楼の銀板には彼の名が刻まれていた。鐘が鳴る夜が近づくたび、彼女はそれを見ないようにした。彼が帰ってくれば、きっと責めるだろうと思ったからだ。
あの夜、吹雪の森へ出ていったのは彼だった。エレナは引き止めなかった。止める言葉を知らなかったのではない。ただ、彼が出ていけば、家に残された苦しみもいくらか遠ざかるような気がしたのだ。
彼は帰らなかった。
葬儀のあと、町の人々は彼女に慰めの言葉をかけた。エレナはうなずき、礼を言った。どの言葉も、彼女の胸に触れる前に冷えて落ちた。
彼女は魔術師だった。ならば悲しみを消す術もあるはずだ。そう考えることで、悲しみを抱えている自分を、しばらく見ずに済んだ。
鐘楼の夜が迫ったある晩、エレナは町の広場へ忍び込んだ。月明かりの下、銀板が吊られていた。無数の名が、冷たい光を返している。彼女はユリウスの板を外した。
その名を掌に隠すと、鐘楼の鐘が小さく鳴った。まだ誰も触れていないのに。
エレナは走った。
町の灯が見えなくなるまで走り、北辺の森の奥へ入った。枝が頬を裂き、雪が靴を濡らした。やがて木々のあいだに黒い沼が現れ、その水面に白い鹿が立っていた。
鹿の角には霜が積もっていた。目は人のものに似て、ひどく疲れて見えた。
「忘れたいのか」
鹿が言った。声は水底から響くようだった。
「悲しみを消したい」
「悲しみは記憶の影だ。影だけを消すことはできぬ」
「なら、記憶を消して」
エレナは迷わず、銀板を差し出した。
鹿は板に刻まれた名を鼻先でなぞった。銀が黒ずみ、文字がひとつずつ消えていく。
「この名を渡せば、男の記憶をおまえの胸から抜き取る。男は帰る場所を失う。おまえもまた、いずれ名を失う」
「かまわない」
それは本心だった。少なくとも、そのときの彼女にはそう思えた。
鹿が息を吐くと、沼から白い霧が立ち上った。霧はエレナの胸へ入り、そこにあった何かを冷たく掻き出した。彼女は膝をついた。痛みはなかった。痛みがないことが、ひどく不吉だった。
「これで、もう泣かずに済む」
彼女はそう呟いたが、声の主が自分だという確信も、少しずつ薄れていった。
その夜、町では鐘楼の鐘がひとりでに鳴り始めた。
一度、二度、三度。鐘は止まらなかった。銀板が風もないのに打ち合わされ、町じゅうへ甲高い音を散らした。吊られた名がひとつ、またひとつと銀から剥がれ落ちる。文字は白い火となって空に浮かび、森の方角へ流れていった。
名をなくした死者たちは、帰る家を見失った。
彼らは道を探し、戸を叩いた。誰も開けなかった。家族の顔は覚えていても、自分の名を呼ぶことができなかった。呼びかけられない死者は、やがて生者の顔を借りた。
翌朝、町の人々は自分と同じ顔をした誰かと向かい合った。
母親の寝床には、母親の姿をした死者が横たわっていた。息子の食卓には、死んだ息子に似たものが座っていた。誰もが見慣れた顔をしているのに、その目の奥には知らない夜が沈んでいた。
エレナが町へ戻ったとき、通りは静まり返っていた。窓という窓から、人々が彼女を見ていた。見覚えのある顔ばかりだった。けれど、誰ひとり彼女に声をかけない。
彼女は夫を探した。
広場の井戸のそばに、ユリウスが立っていた。頬にはあの吹雪の夜についた古い傷があり、肩には、出ていったときと同じ外套をまとっていた。
エレナは足を止めた。
彼が振り向く。彼の瞳を見た瞬間、胸の奥で何かが揺れた。名前を呼びたいと思った。呼びたい理由は分からなかった。
「あなたは、誰ですか」
ユリウスは尋ねた。
声も、癖も、まぎれもなく彼のものだった。だが、その声に彼女への記憶はなかった。
エレナは答えようとした。自分の名を口にすれば、何かが戻るかもしれない。けれど舌の上には、空白しかなかった。
彼女もまた、なぜこの男を愛したのか思い出せない。それでも、彼の手に触れたかった。理由のない衝動だけが、痩せた指を前へ押し出す。
手と手が触れる、その直前。
森の奥から、白い鹿が現れた。
町の人々は道を開けた。誰も鹿を見て驚かなかった。生者も死者も、同じように目を伏せていた。
鹿はエレナを見た。
「代価の時だ」
「もう、渡すものはない」
「おまえは名を残している」
鹿が首を振ると、彼女の影が地面から剥がれた。影は細い糸になり、鹿の角へ絡みつく。エレナは叫ぼうとしたが、声は出なかった。
自分の名が、喉から引き抜かれていく。
それは、記憶よりも静かだった。生まれてから呼ばれてきた音が、町の人々の心からひとつずつ消えていく。家の扉に書いた印も、古い手紙の署名も、彼女を指すものではなくなった。
ユリウスは、目の前に立つ女を見た。
彼女の手がまだ伸ばされているのを見て、彼は一瞬だけ、何かを思い出しかけた。けれど、その感情は形を得る前に消えた。
鹿は森へ戻った。彼女の名を角に載せて。
エレナは広場に残された。誰も彼女を見なかった。誰も、そこに誰かがいたことに気づかなかった。
夕暮れ、鐘楼の鐘が鳴った。
死者たちは帰る家を見つけられず、生者たちは自分の顔をした死者に戸を閉ざした。鐘は鳴り続けた。銀板のない鐘楼には、刻まれる名がもうひとつもなかった。
それでも音だけは、町の屋根を越え、森の奥まで届いた。
誰もエレナを覚えていなかった。
ただ、鐘だけが、彼女のいない夜を数え続けた。












