佐伯は夜明け前に目を覚ました。脳裏にこびりついた前日の取材ノートをざっと確認すると、薄暗い外の空気を肺いっぱいに吸い込みながら静かに家を出る。封鎖された街へ足を運ぶという危険な計画――本来であればためらってもいいはずなのに、彼はむしろ高揚感に突き動かされていた。この街で何が起きているのか、ジャーナリストとしての使命感が恐怖を上回っていた。
まだ太陽が昇る前の時間帯、最寄りの駅からタクシーを使い、警備の薄そうな裏通りで降りる。周囲に人気はなく、聞こえてくるのは遠くで貨物列車が走る低い音だけ。少し歩くと金網フェンスが見えてきた。そこに大きく掲げられた「立入禁止」の看板と、所々に貼られた警戒線――だが、見回しても武装した警備兵の姿はない。佐伯はバッグから懐中電灯を取り出し、慎重に辺りを照らしながらフェンスに近づく。前日、下見したときに気づいた小さな隙間がまだそこにある。まるで誰かを誘い込むように開いているのを見て、ひやりとした冷たい風を感じた。
「よし、いける」
自分に言い聞かせるように呟き、フェンスをこじ開けて身体を押し込んでいく。鉄の匂いと埃が鼻を刺激し、金属が擦れる音がなんとも不気味だ。中に入り込むと、そこは噂どおり完全な無人の街になっていた。薄明かりの中、どこか現実味のない静寂が辺りを包んでいる。舗道には砂や枯れ葉が舞い、建物の窓は板で打ち付けられているところもあれば、割れているところもある。人の生活の痕跡はあるのに、人影がまったくないのだ。
一歩進むたびに、固いアスファルトと靴底が擦れ合う音が嫌に響く。やがて目に飛び込んできたのは、建物の壁一面に刻まれた深い焦げ痕だった。まるで動物の爪痕のように、ひっかかれたような黒い筋が何本も走っている。それだけでも十分気味が悪いのに、よく見ると人間の手形のような黒い跡がまばらに散っている。しかも大きさがまちまちで、子どもかと思われるほど小さいものもあれば、異様に大きい手形もある。佐伯は思わず背中に悪寒を感じ、懐中電灯を握り直した。