小さな奇跡の一皿
まだ夜明けの薄青い光が町を包む頃、リナは愛車の軽トラックで朝市に向かっていた。吐く息が白く弾む早朝。市場のテントには、霜をまとった冬野菜が静かに並び、農家たちの笑い声が湯気のように立ちのぼっている。
彼女の目当ては、年に一度だけ収穫される「白雪ニンジン」。通常のニンジンより小ぶりで真珠のような白さを帯び、霜が降りた翌朝にだけ糖度が頂点に達する——地元では〝幻の甘味〟と呼ばれる特産品だ。
籠を担ぐ老農家の佐伯が、氷の膜を割るように軽く首を振る。
「今年は甘みが乗ったよ。霜が三日続いたからね」
「待ってました」とリナは声を弾ませる。一本試しにかじるとシャリ、と歯が入り、すぐにジンジャーにも似た柔らかな香りが喉奥に抜けた。甘露のような味わい——祖母直伝のスープの面影が蘇り、胸が熱くなる。
カフェ・ルフレは駅前通りの角、レンガ壁の小さな店だ。開店前、リナは白雪ニンジンを低温スチームにかけ、玉ねぎと共に煮立つ鍋の前で木べらをゆっくり回す。生姜を擦り下ろし、バターでコクを重ね、乳白色のポタージュをミキサーへ。最後に塩を一つまみ落とすと、甘さが輪郭を帯びた。
「うん、今年もいい出来」
その昼下がり、カランと鈴が鳴り、背の高い男性が店に入って来た。グレーのコートに身を包み、艶のある黒髪を乱さぬようそっと払う。瞳は鋭いがどこか遠くを見つめるような陰りをまとっている。
カウンターに座ると、メニューを開かずに壁の黒板を見上げた。チョークで書かれた本日の限定「白雪ニンジンのジンジャーポタージュ」。
「そのスープをお願いします」
短い言葉だが、声は澄み切ったダークチョコのような低音だった。