運命のレシピ – 第10話

匿名の来訪者

 デセールが配り終わった頃、扉が静かに開き、一人の老人が黒い帽子を目深にかぶって入って来た。橘克己――タケルの父だった。予約名は「鈴木」。店側は気付いていたが、タケルもリナもあえて胸にしまった。

 彼は隅の席で黙々と皿を味わう。箸が止まらない。やがてスタッフが最後のスープを運ぶと、ゆっくりと顔を上げた。

シメ――運命のスープ

 白雪ニンジン80%とタケルの母のキャロットポタージュ20%を同温度でエマルジョンし、中央には祖母譲りの焼印を模したクルトン。

 一口すすった会長は、カップを置き、深く息を吐いた。目元がほのかに潤んでいる。立ち上がり、会計を済ませ、出口でタケルの肩を軽く叩き、ただ一言だけ残した。

 「数字にできない価値……負けたよ」

 その背は、数十年背負い続けた帝国の重みを降ろしたかのように、誰よりも軽かった。

ハーブ畑で

 閉店後の裏庭。薄桃色に暮れる空を背に、タケルが汗で湿った白衣を脱ぎ、胸ポケットから銀のリングを取り出した。

 「割れた皿も、今日の皿も、全部君とだから作れた。これから先、一緒に“未来のスープ”を書いてくれませんか」

 リナは試作ノートの最後の空白ページを開き、万年筆で大きく書いた。

 《Yes》

 インクが乾く前にページを閉じ、タケルの掌に重ねた。

 春の宵。畑に植わった白雪ニンジンの苗がほのかに甘い香りを放ち、二人の影を優しく包んだ。

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