運命のレシピ – 第4話

第1話 第2話 第3話

ふたりの試作ノート

 深夜一時を回ったラ・ヴァレの厨房は、まるで潮が引いたあとの海辺のように静かだった。ステンレスの調理台は磨き上げられ、残るのは淡い電球色に浮かぶ二つの影だけ。リナは真空低温機の温度表示をにらみ、タケルは秤の数字を細かく書き留めている。

 「白雪ニンジンの甘さは、低温でじっくり火が入ると蜂蜜に近い香りに変わる。でも脂肪分を加えると輪郭がぼやける」

 タケルが呟くと、リナは頷き、温度計を引き抜いた。「じゃあ乳脂肪を抜いたムースにして、コクはナッツオイルで補うのはどうですか? 仕上げに酸味を重ねれば甘さが立つはず」

 タケルの眉が面白そうに跳ねた。「酸味には藍いちごを使おう。色も対比になる」

 藍いちご——山梨の高地で栽培される青紫色の珍しいイチゴだ。クロスしたベリーの甘酸っぱさに、後味にかすかなハーブ香が残る。二人は市場で出合ったとき、その独特の風味に同時に惹かれ、メモを取り合ったのだった。

 ムースのベースは、蒸した白雪ニンジンを滑らかにしたピュレに、アーモンドオイルと寒天を合わせる。火を使わず30℃で乳化し、舌に乗せた瞬間に体温でふわりと崩れる食感を狙う。

 一方のジュレは、藍いちごを粗く潰してバルサミコで軽く火を入れ、瞬間的に真空冷却。酸味と香りを閉じ込めたあと、アガーでユルめに固める。

 「寒天よりアガーの方が低温で固まるから、いちごの香りを飛ばさずに済む」

 タケルの説明を背中で聞きながら、リナは口元をほころばせる。技術と直感が齟齬なく噛み合う瞬間が増えてきた。それは厨房の空洞を満たす静かな脈拍のようで、互いに鼓動を探る前に、もう同じリズムを刻み始めていることに気づく。

タイトルとURLをコピーしました