東京の片隅にひっそりと佇む「月の書店」は、時間が止まったかのような静けさに包まれていた。薄暗い店内には、古い本が整然と並べられ、それぞれが独自の物語を秘めている。その中にこそ、松本大輔の心の故郷が存在していた。
大輔は30歳のサラリーマン。内向的で人と接するのが苦手な彼は、日々の仕事に追われ、心の底に深い孤独を抱えていた。忙しい都市生活の中で、自身の存在を見失い、ただ生きているだけの毎日。そんな彼の唯一の安らぎは、この書店だった。
数少ない客のひとりとして、彼は仕事帰りに訪れ、本に囲まれることで心の平穏を取り戻すことができた。ある晩、いつも通り店を訪れると、何かが彼を引き寄せた。奥の方にある古本の棚に目が行き、そこで一冊の本を見つけた。それは表紙が薄汚れ、タイトルも読み取れないほど年季が入った一冊。
大輔はその本を手に取り、ページをめくり始めた。すると、彼の心を駆け巡る過去の記憶や感情が次々と鮮明に蘇ってきた。彼の心にずっと封じ込めていた幼い頃の思い出、恋愛の喜び、さらには痛みすらも。古い本は、彼を過去へと引き戻すようだった。
その本を通じて出会ったのが田中由紀だった。彼女は書店で本を探している時、大輔の視線を感じ取ったのか、にっこりと笑いかけてくれた。明るく、元気な彼女の存在は、大輔にかつてないほどの光をもたらした。彼は彼女と話すことの嬉しさ、そして心の奥底で温かさを感じた。
由紀と交わした会話は、まるで月の光のように大輔を包み込む。その笑顔は彼の心の壁を少しずつ溶かしていった。二人は書店での出会いをきっかけに友達になり、日々の中で共に過ごす時間が増えていった。大輔は由紀といることで、孤独から解放される気がした。
しかし、幸せは長く続かなかった。由紀との関係が深まるにつれ、大輔の心の奥底に隠されていたトラウマが顔を出してきた。過去の恋愛での失敗が鮮明となり、彼は自分に対する自己嫌悪に陥ってしまう。彼女の明るさと自分の暗さが対照的過ぎて、次第に彼は彼女との距離をとるようになっていった。
由紀の「大輔さん、今日はどんな本を読んでいたの?」という問いかけも、いつしか重荷に感じられるようになった。彼は彼女に心を開くことができず、彼女の笑顔が自分の心をさらなる闇へと押しやっているように思えた。堪えきれず、彼は一度、彼女に距離を置くことを告げた。
その時、由紀の瞳に映る悲しみを見た……彼は逃げてしまった。自分の心の弱さが彼女を傷つけると恐れ、彼自身の選択で彼女の明るい未来を奪ってしまったのだ。由紀との時間が幸せであればあるほど、その思い出は痛みを帯びていった。
大輔は書店に足を向けることも次第に少なくなり、彼女を思い出す度に苦しさが胸を締め付けた。彼女の声、笑顔、そして何より二人が交わした楽しい会話。まるでその全てが彼の心に共鳴し、痛みを引きずるかのようだった。彼は孤独の中で、月明かりのような彼女の存在がいかに貴重だったかを思い知らされる。
麗しい月の光が静かに降り注ぐある夜、大輔は一人「月の書店」を訪れた。彼の元に戻ってきたあの古い本を抱きしめ、彼女との思い出が詰まったページる。読みかけのページが折れていた自分の心を、再び彼女に重ねていた。
「どうして、僕は君を離してしまったんだろう……」
虚しさが彼の心を包み込む中、月明かりのもとで大輔は静かに涙を流した。彼女との幸せだった日々が、この書店のどこかに残っているかのように思えた。だが彼には、もうそれを取り戻す手立てがなかった。愛し合うことすらできなかった、その影は深く彼の心に刻まれていった。
彼の決して振り返ることのない過去に、再び一つの影が忍び寄る──。