翌朝。ラ・ヴァレの厨房には緊張が走っていた。タケルは白衣を返却し、スタッフへ頭を下げる。
「この厨房で得たすべては宝物だ。だが次は、数字でなく味と笑顔を守りたい」
スーシェフが口角を上げた。「シェフ、またどこかで一緒に火をつけましょう」
タケルは短くうなずき、最後にステンレス台を布で磨いた。指先に映る自分の顔は、夜明け前より少しだけ凛として見えた。
一方、リナは荷造りを終え、夜行バスのチケットを握りしめて東京駅にいた。人ごみの熱とネオンサインの光は、昨日まで胸を躍らせた都会の輪郭をぼやかすだけ。
ふとバッグの内ポケットに硬い感触を覚え、取り出すと、タケルが市場で渡してくれた「白雪ニンジンの種」が小さな封筒に残っていた。
この種を蒔く場所は、やっぱりあの町しかない。
そう思うと、迷いの中にひとしずくの甘い香りが滲む。それは再出発を告げる秘密のスパイスのようだった。
深夜零時。バスは首都高を滑り、窓の外に散らばる光の粒を置き去りにする。リナは眠れぬまま、スマホの画面を何度も点けたが、タケルからのメッセージは届かない。
——けれど遠く離れた試作室では、辞表を出したばかりの彼が、砕けた皿の破片を拾い集めていた。
「割れたからこそ、もう一度焼けばいい」
ひと呼吸ごとに夜明けが近づく。ふたりそれぞれの厨房で、同じように火を灯す準備を始めていることを知らぬままに——。



















