どこかで聞いた言葉が、ぼやけたインクのシミのように滲んでくる。青い万年筆。誰だった? 名を思い出せない。
資料束が俺の前で止まる。真白の指が、紙の角を揃える。彼女の瞳は湖面みたいに静かだ。その静けさは彼女のものではなく、都市のものだ。
机に、また三・五・三。
俺は胸の奥でリズムを数える。心臓は都市に飼われ、一定のテンポで打っている。
そこから、半拍だけ、外す。
ほんのわずか、息を止める。
次の一打に、呼吸を被せる。
半拍。遅れ。遅れ。遅れろ。
指先が、震えた。
右手の親指、爪の白い半月が微かに光を拾う。
机の下で、俺の膝が布に触れ、わずかに擦れる音。
オルフェウスの声が、氷を軋ませる。
「ノイズ検知。調整します」
喉の奥が勝手に動き、唾が飲み込まれる。息は再び最短路を通り、心拍は整えられる。震えは消え、俺も消える。
——けれど、消える前に、確かにそこにいた。
退室。廊下。白い光が床に直角の影を落とす。整列する足音の列の中に、少しだけ合わない音が混ざる。
俺の靴底が、床を“一拍だけ遅れて”叩いたからだ。
誰も気づかない。気づいたとしても、それは人間の誤差。都市は、今はまだ見逃す。
エレベーターの鏡に、もう一度、俺が映る。



















