相談箱は今日も大騒ぎ

港町の区役所には、潮の匂いがする。

 正確には、正面玄関を開けるたび、潮風が書類の端をめくり、誰かの弁当の焼き魚の匂いと混ざって、窓口までやってくるのだ。

 二十二歳の新人職員、朝倉美咲は、その匂いが好きだった。

「朝倉さん、申請書の控え、こっちじゃなくて向こうの箱」

「すみません! 次は大丈夫です!」

 先輩の田辺に指摘されても、美咲はへこたれない。書類を抱えて走り出し、角を曲がったところで別の書類をばらまいた。

「次の次は、もっと大丈夫です!」

「まず立ち止まりなさい」

 田辺は笑いながら、床に散った紙を拾った。

 美咲はいつだって前向きだった。失敗しても、笑って次へ進む。そうしていれば、いつかみんなの役に立てると信じていた。

 ある日の午後、倉庫の整理を命じられた美咲は、書類の山の奥から、木製の箱を見つけた。

 表には、かすれた文字で「お困りごと相談箱」と書いてある。

「こんなものがあったんですね」

「昔、置いたらしいよ。いつから使われてないのかも知らないな」

 田辺が箱のふたを開けると、紙の束がどさりと床に落ちた。古い手紙に混じって、つい最近の日付のものもある。

 美咲は一通を拾い、読み上げた。

「『ひとりで夕飯を食べるのに飽きました。できれば、お茶の時間から仲間に入れてください』……差出人は、三丁目の佐々木さん」

「相談箱、まだ生きてたんだ」

 もう一通には、丸い字でこうあった。

『魚屋の大将が、うちのパンを魚臭いと言いました。言い返したら、今度は魚屋の看板にパンくずを投げられました。仲直りしたいけれど、先に謝るのは悔しい。パン屋より』

「パン屋さんと魚屋さん、そんなことで揉めてたんですか」

「そんなこと、が当人には大事件なんだよ」

 さらに、羽のような跡がついた紙が一枚。

『人間の食べ物は、地面に置きっぱなしにしないでください。食べてしまうので。カモメ代表』

「被害を訴えてるの、カモメのほうですよ」

「いや、盗み食いの苦情だろう」

 最後の手紙には、差出人の欄に「閉店した潮風堂の看板」とあった。

『店がなくなってから、毎日、誰にも見上げてもらえません。文字も剥げてきました。私はまだここにいます』

 美咲は、手紙を胸に抱いた。

「これ、全部なんとかしましょう」

「全部?」

「はい! 次は大丈夫です!」

 田辺は、相談箱を見てから美咲を見た。

「その言葉、今日はもう三回聞いた」

「回数制限はありません!」

 まず美咲が向かったのは、三丁目に住む佐々木さんの家だった。佐々木さんは七十八歳。玄関先で「相談なんて大げさな」と言ったものの、湯呑みを出す手はどこか心細そうだった。

「役所の人に来てもらうほどじゃないよ」

「じゃあ、役所の人じゃなくて、お茶を飲みに来た人ということで」

「それなら、羊羹も出すよ」

 美咲は、近所の人たちに声をかけ、小さなお茶会を開いた。最初は三人だったが、佐々木さんが羊羹を切り分け、隣の家の人が漬物を持ってくると、椅子が足りなくなった。

「ひとりで食べる夕飯に飽きたって、手紙に書いてありました」

「そんなことまで書いたのかい」

「はい。相談箱が秘密を守ってくれました」

「箱に言いふらされた気もするけどねえ」

 佐々木さんは笑った。その笑顔を見て、美咲の胸の奥が、少しだけ軽くなった。

 次は魚屋とパン屋だ。

 魚屋の大将、源さんは「魚にパンを合わせるなんて邪道だ」と言い、パン屋の千代さんは「パンを魚臭いと言うのは営業妨害だ」と腕を組んでいた。

「それなら、両方の言い分を一皿に乗せましょう!」

「どういうことだ」

「魚の形をしたパンに、魚を挟みます」

「魚の形のパン?」

「魚のパンに魚? ややこしいわね」

 試作は、見た目が少し不気味だった。魚の形のパンに、焼いた白身魚と甘辛いタレを挟む。源さんは一口食べて眉をしかめ、千代さんは腕を組んだまま黙った。

「……うまいな」

「パンも、魚の味を邪魔しないわね」

「名前は『仲直りサンド』にしましょう!」

「ださい」

「でも、売れそう」

 二人は、同時に笑った。翌週には「仲直りサンド」が商店街の名物になった。源さんは千代さんに魚を届け、千代さんは源さんにパンを届けるようになった。なぜか配達のたびに、二人とも「ついでだ」と言い張った。

 カモメの相談には、区役所の職員たちも頭を抱えた。

「餌を与えないでください、という看板を増やすのはどうでしょう」

「カモメが読めるのか?」

「読めなくても、人間が読めます」

「じゃあ、カモメには何をするの?」

 美咲は、港の漁師や市場の人たちを集めた。食べ物を屋外に放置しないこと、パンを投げないことを町中に知らせる。さらに、カモメが寄ってきたときに食べ物を隠し、代わりに波止場の安全な場所へ誘導する練習を始めた。

「訓練名は『盗み食いをやめよう大作戦』です!」

 初日、カモメは訓練用のパンを一羽が丸ごと持ち去り、残りはその後を追った。

「訓練というより、運動会だな」

「次は大丈夫です!」

 美咲はパンの代わりに、鳥が食べられない木製の模型を用意した。カモメは模型をつつき、あからさまに不満そうな声を上げた。それでも、人間たちが食べ物を片づけるようになると、港の食堂前で大騒ぎすることは減っていった。

 最後の相談は、閉店した潮風堂の看板だった。

 商店街の外れに立つ看板は、塗装が剥がれ、文字の「潮」が半分消えていた。店主は数年前に町を離れ、建物も取り壊される予定だという。

「看板を見上げる人は、もういませんかね」

 美咲がつぶやくと、通りかかった小学生が足を止めた。

「ここ、おばあちゃんが昔、アイス買ってくれた店?」

「そうだよ。夏になると、みんなで並んだもんだ」

 近所の人たちが、ひとり、またひとりと昔話を始めた。看板は、ただ古びた板ではなかった。町の思い出が、そこに引っかかっていたのだ。

 建物は予定どおり取り壊すことになったが、看板だけは修繕して、商店街の休憩所に移すことになった。子どもたちが色を塗り直し、佐々木さんが新しい文字を書き足す。

『潮風堂の思い出、ここにあります』

 相談箱は、倉庫から区役所のロビーへ移された。美咲たちは箱を磨き、誰でも気軽に使えるよう、紙と鉛筆を隣に置いた。困りごとだけでなく、「うれしかったこと」「誰かに聞いてほしいこと」も書いてよいことにした。

 手紙は、少しずつ増えていった。

『最近、孫が電話をくれました』

『仕事を辞めたいけど、辞めた後の話も聞いてほしい』

『カモメにパンを取られました。取られたパンは新作でした』

 書いた人の名前があるものも、ないものもあった。田辺や同僚たちは、内容を確かめて、必要な人につなぎ、すぐには解決できないものには、まず返事を書いた。

 それでも美咲は、忙しい日ほど笑顔を作り、書類を抱えて走った。相談箱を始めたのだから、どんな悩みも解決しなくては。そう思っていた。

 ある夕方、誰もいなくなったロビーで、田辺が美咲の隣に座った。

「朝倉さん、最近、ちゃんと休んでる?」

「大丈夫です。まだまだできます」

「できるかどうかを聞いてないよ」

 田辺は、相談箱から出てきた一枚の紙を美咲に渡した。見覚えのある字だった。相談者の名前はない。ただ、こう書いてある。

『失敗したら、役に立てなくなったら、ここにいてはいけない気がします。明るくしていないと、みんなを困らせると思います』

 美咲は息をのんだ。

「これを書いた人、誰だろう」

「わからないね。でも、読んだ人は答えられる」

 田辺は鉛筆を手渡した。

 美咲は少し考えて、返事を書いた。

『失敗しても、役に立てない日があっても、ここにいていいです。あなたが笑えない日は、私たちが隣に座ります』

 書き終えると、彼女の目から涙が落ちた。

「私、誰かの役に立てないと、居場所がないと思ってたみたいです」

「そうだったのか」

「でも、私が書類をばらまいたときも、田辺さんは一緒に拾ってくれました」

「床に書類を広げるのが趣味じゃないからね」

「ひどい!」

「でも、君が失敗したことまで含めて、君はここにいるんだよ」

 美咲は、笑いながら泣いた。今度は、笑顔でごまかすためではなかった。

 相談箱の開設記念祭は、区役所前の広場で開かれた。佐々木さんのお茶と羊羹、魚屋とパン屋の仲直りサンド、子どもたちが塗り直した看板。町の人たちが持ち寄ったものが並び、カモメたちも、少し離れた街灯の上から祭りを見守っていた。

 美咲が挨拶を始める。

「この町では、困りごとを一人で抱えなくていいことになりました。完璧な答えが見つからなくても、隣に座ることはできます。だから——」

 そのとき、一羽のカモメが急降下した。

 祭壇の上のパンをくわえ、広場を横切っていく。

「パンが飛んだぞ!」

「新作のほうだ!」

「追いかけないで! 訓練の成果を見ましょう!」

 人々が右往左往する。カモメは仲直りサンドをくわえたまま、看板の上に降り立った。源さんと千代さんが、同時に顔を見合わせる。

「……半分ずつに切ってやるか」

「カモメに?」

「いや、あれは返してもらう」

 広場に笑いが広がった。

 美咲はマイクを握り直し、声を張った。

「これも、相談案件ですね!」

 今度は、町じゅうが笑った。

 問題は、すぐにはなくならない。明日も誰かは困り、誰かは失敗し、カモメはきっと隙をうかがう。それでも、この町には相談箱がある。返事を書く人がいて、隣に座る人がいる。

 祭りの帰り道、佐々木さんが美咲の腕を取った。

「今度は、あなたもお茶会に来なさい」

「はい。失敗した日の話もします」

「その日は羊羹を多めに切ろう」

 潮風が吹き、相談箱のふたがかすかに鳴った。誰かの声を受け止める箱は、明日を一緒に迎える約束のように、町の真ん中で静かに待っていた。

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