ただいま、母さん
静かな夕暮れの風に揺れる看板を目印に、勇気は数年ぶりに故郷へと戻ってきた。仕事に追われる都会暮らしから離れ、どこか緩やかな時間が流れるこの小さな町の空気は懐かしくもあり、少しだけ切ない。狭い駅前通りを抜けて坂を上がると、母・亜希子が営む「希望のカフェ」の小さな看板が見える。看板の文字は少し色あせ、外壁も昔より汚れが目立つが、それでもそこから漂う温かな空気は昔のままだ。
扉を開けると、店内にはいつもと変わらない懐かしい香りが充満している。コーヒー豆を丁寧に焙煎したあとに漂う、苦味の奥にどこか甘さを含んだ香り。その瞬間、勇気は都会で積み重なった疲れがほんの少しだけほどけていくのを感じた。しかし、自分が長らく故郷を離れ、母や店を放っておいた事実が胸を締めつける。
「あら、勇気くん、おかえり!」
そんな声に振り返ると、笑顔を向けてくれるのは常連客の一人である町内会の役員を務める女性だった。彼女は昔から亜希子の店を手伝うこともあり、勇気が幼い頃には何度も菓子を持ってきてくれた思い出がある。周囲を見渡すと、他の常連客たちも同じように温かい眼差しを向けている。目深にかぶった帽子を取って小さく会釈する勇気に、「久しぶりね」「元気だった?」という声が次々とかかる。
「勇気、おかえり」
カウンターの奥から顔を出した亜希子は、少し痩せたようにも見えるが、無理をしているのか笑顔は変わらない。そこには母親らしい優しさが確かにあった。しかし勇気には、母の笑顔の陰にある疲労や苦痛が手に取るようにわかる。噂に聞いていた重い病を懸命に隠し、いつも通り店を切り盛りしてきたのだろう。
「ただいま……母さん、ごめん。なかなか帰ってこれなくて」